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2025.05.05

わかり方にも癖がある

わかったと言うのは防御でもあると思わないと、教える側は錯覚をしてしまいます。わかったという言葉は、そのニュアンスからして閉じています。「わかった!だからもう、何も言うな」というニュアンスです。「わかった! 面白い! じゃあこれはどうだ」と次に当たっていく生徒は、もっと欲しがります。指導者としては、閉じた生徒には、もうこれ以上入らないと思って何も言わずに終わりますが、欲しがる生徒には、どんどんと仕掛け、提供します。わかったは始まりであって、わかったことを血肉化し、身体化し、感覚的に扱えるようになるまでは、果てしない演習が必要です。

 

軽くわかって、わかったという生徒もいます。腹落ちするまで頷かない生徒もいます。後者は物事の追求の仕方が万事そのようで、ノートの取り方からメモの仕方、単語帳の使い方など、全てにその姿勢は現れます。成績で言えば、この「わかり方」が軽い生徒よりも、重い生徒の方が良い傾向にあります。昆虫記を書いたファーブルが、昆虫を軽くわかったとは言わないことを考えると、当然とも言えます。しかし、それは個人の感じ方の癖と同じで、そこにはプライドや誇り、見栄、焦り、恐怖、認めたくない自分など、様々な要因が絡んでいます。そこの指導は気づきを与えるまでで、気づいて、向き合い、改めるのは生徒自身の仕事です。

 

この世には成績の良い生徒と悪い生徒がいるという見方ではなく、自分を知ろうとして向き合っている生徒と、まだ向き合えていない生徒がいると言えるように思います。向き合えないのは怖さがあるからで、それを強制することはできません。できませんが、学習を通して望ましいあり方、つまり精神的な自立や成熟を促すことはできます。ぜひ、OSアカデミアで一緒に学びましょう!

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