2017.01.20
国語は感覚、感性の科目であるという迷信
わたし自身が予備校に通っていたときに、
いまテキストで採用している「論理エンジン」の著者である
出口汪氏は、現代文の講師として教壇に立っておられ、
当時から一貫して論理とは、ということばかりを言っておられました。
つまり、国語は感覚、感性の教科ではなく、
筆者が書いた筋道を正しく追うことができる力が問われている
ということですが、あれから20年以上経った現在においてもなお、
国語は感覚、感性の科目であるという誤解は解けていません。
それは、受験とも関係してきます。受験、つまり採点がなければ、
わたしは、国語は存分に感性教育に振るのもナシとは言いません。
しかし、採点を伴う受験が出口である以上、
感性なんて、採点のしようもありません。
感性が採点されるのは、美大の絵画の実技くらいでしょうか。
それだって、基礎的な技法や視点というもののうえに、感性がのっかる程度でしょう。
国語教育が「鑑賞」と「論理」に分かれるということを
以前、ここで書きましたが、その続報はまだ新聞で確認することはできません。
しかし、望ましいことだと思います。
何より生徒を早く、感性・感覚の罠から抜け出させないと、かわいそうでなりません。
視点を変えて言えば、本をよく読む子が、国語ができるわけではないのです。
それが、書かれた筋道を正しく追う力であれば良いのですが、
感性的に偏っていたり、自己への救済を求めたところのみに光を当てる読み方は、
百害あって一利なし。
よく本を読む子どもが陥りやすいのは、この「自分の読み方」への過信。
論理は、あくまでも客観的なものです。
だから、採点可能になるのです。
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