自我をめぐる話
自由に読み、自由に書くことの何が悪いのでしょうか? 僕自身は、高校を卒業するまで、それが間違いだということに微塵も気付きませんでした。むしろ、自分の誇りでさえあったのです。特に、後者の自由に表現する力は、自分の通っていた学校で授かった宝のように思っていました。確かに宝です。しかしそれは、筆者の書いた内容を正しく読み取った上に威力を発揮する宝だということを、後年知ることになります。
読解の段階では、「わたくし」という主観はいったんカッコに入れなくてはなりません。筆者がどう書いているのか、それを、主観を排して読み取ることが第一。その読み取った上に、自由に考え、自由に意見を表明することが可能となります。最初の自分をカッコに入れることが、僕は苦手としていました。いつも「自分が」「自分が」という意識、自我が立っていました。
現代は、自我の確立が叫ばれている時代。江戸時代までは、自分という意識は希薄だったそうです。個人よりも集団。藩とか家とかといった集団の一員として生きることが意識の中心だったようです。明治維新を境に、幕藩体制は崩壊し、家という制度も崩壊し、集団から個人が切り離されて、人々は「自分はどのように生きるか」に思いを巡らせることとなります。
その状況は、今でも変わっていないないように思われます。僕自身も、自分はどのように生きるか、そればかり考えていました。しかも、受験の競争意識の上で、自らを競争のものさしの上に置き、常に上を目指すことが高い意識だと、自らを鼓舞さえしていました。やがて、競争に明け暮れることに疲弊し、うずくまりたい気持ちになったりしました。寝ても覚めても「自分」という意識がついて回り、読解という、筆者の主張を正しく読み取る場面でも、自己主張をし、主観を入れて読み誤ることを繰り返していたのです。
予備校の現代文の授業で、饗庭孝男氏の「中世を歩く 京都の古寺」を読みました。寺へ詣る時間的な距離は、聖なるものに近づいてゆく心の深まりの距離であり、求心状態がつくられてゆく過程だと述べていました。この己を低めるという行為によってこそ、自己と世界との関係が見えてくるのではないか。自己を低めることは敬虔であり畏れだと言う文章を読んで、我に帰りました。自分という意識が、いかに小さいものかを悟ったのです。求めてもなお掴みようのない「自己」に対して焦りと不足を感じていた自分に、許しが得られた気になりました。何者かになろうともがいていたけど、自分は自分でいいのだと思えるきっかけとなったのです。OSアカデミアで現代文を学ぶことは、ものの見方を磨き、生き方を磨くことに繋がります。ぜひ、OSアカデミアにお越しください。
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